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chapter company profile

 

名称 ワッツ コンサルティング株式会社
所在地 〒170-0013
東京都豊島区東池袋3-15-14 クレール東池袋 207号室
電話番号 TEL: 03-6709-3747
設立 平成13年5月3日
資本金 1,000万円
業務内容 マーケティングと経営に関するコンサルティング事業
営業地域 現在、東京を中心に現在お客様は西は大阪・神戸、北は福島までとなっております。他の地域はご相談下さい。
代表取締役 高橋寛美(たかはし ひろみ)

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chapter company greeting

 

私共は創業以来、お客様企業の「売れる仕組み」づくりのお手伝いをして参りました。

私共がこだわって来たことは、お客様企業の相手とする市場・お客様をしっかり把握すること。 そのファクトを大事に、戦略の立案からマーケティングプロセスの設計を行うということを心がけて参りました。

新しい競争の出現の中で、市場はどんどん変化していきます。
謙虚にマーケットに耳を傾ければ、これまで企業が見落としていた大事な事実に必ず気付き、変革の視点を得ることができる と確信があるからです。ワッツ コンサルティングはこれからも、お客様企業の戦略とマーケットのファクトを大事にしながら、 業績向上に貢献させていただきます。

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お客様のWHAT(戦略)を大事にするコンサルティングを心がけたいとの決意を込めました。
そしてWATAYA(綿屋)喜助の精神を継承します。
私たちのゆかりの会社の創業者は、お客様を大切に、商いをしました。このお客様第一主義創業の精神を引き継ぎます。

独立し会社を興そうと思った時に、Wat’s という名前が即座に思い浮かびました。
一つは、どうやるかの前に、何(WHAT)をなすべきか、それは私の仕事で最も大事にしてきた問いでした。
もう一つはありし日の父から聞かされた、綿屋喜助という高祖父の創業物語でした。[注:以下のストーリーは、高橋朋子著『サムライと綿・日本とアメリカ』(風詠社/2010年刊)から抜粋。詳しくは、同書を参考のこと。なお、同書は、Samurai and Cotton のタイトルで、英語版(iUniverse/2011)も発刊されています。]

wats book 喜助は安政二年(1855年)、かつて「伊奈城」(伊奈屋敷)があった武蔵国小室村丸山(現在の埼玉県北足立郡伊奈町小室字丸山)というところに、武士として生まれました。幕末と新時代の夜明けを象徴するアメリカの黒船来航(1853年)直後に誕生し、江戸から明治に切り替わる明治維新の激動期に少年時代を過ごしました。

明治4年、幕藩体制が廃止となり、武士の大半が士族として政府に属することになりましたが、士族への秩禄支給が財政を圧迫したことから、政府はすぐ士族身分の解体に乗り出しました。そして大量の失業が発生。政府からの秩禄を失った士族達は、役人・軍人・教員などになった例もあったようですが、慣れない商売に手を出して失敗した例も多かったようです。
急に不慣れな商売等を始めて失敗する事を喩えて、「士族の商法(武士の商法)」といいますが、この時代の世相を反映しています。

明治維新の政治的変革は、武士達の生活面での大きな変化を引き起こし、武士のアイデンティティを喪失させるところとなりました。

そんな激動と動乱の時代に生きた喜助は、「武士の魂」である刀を捨て、新たに職を求めました。喜助は、16歳の時に父親を亡くしていますので、若くして一人で一家の運命を担い、商人になることを決断したものとみられます。
喜助の父は、武士の生き方を選び亡くなりましたが、残された喜助は新しい時代に生き抜くことを決断しました。その苦悩の程は、筆舌に尽くしがたいものがあったことと思われます。父の死を悼む余裕さえなかったに違いありません。また、身分的には、「士農工商」の最高位から最下位に落ちたことになりますが、そんなことも言っていられないくらい家計が困窮していたのかも知れません。

刀を捨て丸山を出た喜助は、四里(16キロメートル)ほど西に行った入間郡川越町(現在の埼玉県川越市)に移り住み、「油庄」とよばれる布団屋で丁稚奉公して商いを学びました。「小江戸」と呼ばれる川越は、江戸時代には川越藩が置かれ、その城下町として大いに栄えました。また、その繁栄に加え、川越街道や新河岸川の舟運で江戸と結ばれた商業都市でしたので、商いを学ぶには絶好の場所でした。

そして、明治19年(1886年)喜助は長い修業の末、北足立郡原市町(現在の埼玉県上尾市原市) で「高橋綿店」を創業したのでした。31歳の時でした。原市町は、喜助が生まれ育った丸山から目と鼻の先にあり、実質的には故郷のようなものです。当時としては少々遅咲きではありましたが、喜助は故郷に錦を飾ったというわけです。そして、高橋綿店の創業者として、「初代」と呼ばれるようになったのでした。

喜助の商才はなかなかのものだったようです。当時にしては珍しく、チラシを使うなど、宣伝に力を入れたと言われています。また、輸入した原綿を工場で製綿し、「マスコット印」というブランド名で販売する等、アイデアに富んだビジネスマンでした。ちなみに、この「マスコット印」のマスコットは、燕尾服を着た紳士です。そのラベルの脇には「はい、また来ました」と書かれており、喜助のユーモアに富んだ側面を垣間見ることができます。また、西洋的な燕尾服といい、「マスコット」という名前といい、喜助はかなりのハイカラ好きだったようです。

喜助の商売は成功し、御蔭で高橋家の生活は次第に豊かになりました。こうして「初代」は「綿屋喜助」と呼ばれ、町の名士として、人々から頼られ、慕われるようになったのでした。そして、職人や丁稚を沢山雇い、そのお得意先は四県(埼玉、東京、千葉、神奈川)に渡るまでになりました。それが荷車の時代に行われたのですから、大変なものだったろうと思います。

私は、子供の頃父から聞かされた喜助にまつわるエピソードを鮮明に覚えています。私は、喜助から数えて5代目。しかし、高橋綿店を継ぐことなく、大学を卒業と同時に自動車会社に就職しました。そして、30歳の時に、病に倒れた父を失うこととなりました。以来、7年間、家族・従業員で支え合い、皆で高橋綿店を守り抜きました。7年後というのは、生前の父が楽しみにしていた創業100年祭を迎える年であり、それまで立派に頑張ろうという目標を立てたのでした。

1986年、私の代で高橋綿店に終止符を打つ決断をした時には、私達を育んでくれたお店や工場に対し、深い感謝の気持ちで一杯になり泣きました。一つの形が無くなる事も残念でありました。しかし、時間とともに、喜助の残したもの、父から学んだものや思い出は私達の心にあると思えるようになりました。

それから更に15年後の独立創業に際し、綿屋喜助の残したものを思い、Wat’sの名前に、喜助への敬意を表したいと思いました。事業の形は変われども、お客様に誠実な商いをする精神、何よりも勇気をもって新しい時代を切り開こうとした精神を継承しようとの決意を込めて。

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chapter company staff

 

①経営コンサルタント : 高橋 寛美(たかはし ひろみ)

 

【経歴】

一橋大学 経済学部卒

大手自動車メーカーに勤務。購買、情報システム、企画部門を経て、移動通信会社の設立、立ち上げに参加。

経営企画、商品開発、マーケティング、広報などを経験した後に経営コンサルティング業界に転出。

2001年独立。ワッツコンサルティング株式会社を設立し、現在に至る。

中小企業診断士(鉱業)

 

【コンサルティング実績】

資材コストの低減、調達業務改革 (通信建設会社、自動車会社)

CRM導入支援(通信、損保、テレマ、通販会社)

マーケティング戦略立案(通販会社、高齢者福祉事業)

新規顧客獲得増強プロセスの構築・テレマ実験(同上)

ベンチャービジネスの日本進出支援(米国通信関連)等


②マーケティングスタッフ : 榧木 由美子(かやのき ゆみこ)

 

【経歴】

日本大学芸術学部卒。

広告、SP企画会社勤務。

編集プロダクション

九州製菓メーカーの企画室を経て、2001年ワッツコンサルティング(株)取締役就任。現在に至る。

社会保険労務士

 

【マーケティング企画実績】

貸別荘事業立ち上げに伴うトータルプランニング、生保新商品促進ツールの開発。

自動車メーカー納期改善計画のインナーコミュニケーション企画。

幕張メッセにおける情報産業エキジビション広告・展開・コミュニケーション企画。

和菓子洋菓子商品企画等。

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